誰もが自分がSかMどっち?っては話題になったことはあると思う。私はSかMかと聞かれたら「相手による」と答えてきたんだけど、どうやらそれは正解らしくて、この世には誰に対してもSな人はいない、同時に誰に対してもMな人もいないようだ。SMは信頼関係がなければ成立しないことが原則であり、Mの女性から言わせたら偏った支配欲の自称ドSはSというものを根本から勘違いしてるのでおよびでないそうである。SMのことは調べるほどに深くて、宗教政治などの社会構造のお話まで行き着いてしまう。そこまで言って委員会。というわけで、あまりに複雑な世界なので今回のガイドブック鹿島茂「SとM」を頼ることにしよう。
この本は文学宗教政治アダルトなど様々な見地から、非常に複雑なSMの世界を読み解いている。全てが正解とは言えないかも知れないが、母体としてのSMの理解にはとても参考になる本だ。難解ではあるが、ぜひ読んでみることをお勧めする。
SMは信頼関係であるということを前述した。この本によればSMはMありきで、Mが理想のSを探すことから始まるというのが著者の見解だ。社会の状況によってMは急増するらしい。Mとは失われた絶対者へのノスタルジーだという。ノスタルジーとはフランス語で郷愁と訳され、過ぎ去った時代への懐かしさを意味する言葉で、寂しさや喪失感というニュアンスも含む。歴史上カリスマ的な教祖や支配者、王様がいるときは人間の中のMは満たされている。しかし、そうした絶対者が不在の時代はMが急増するらしい。現代の日本もそうかも知んない。
さて、MはSを求めている。しかし、それは誰でもいいわけではない。一言で表せば「自分に罰を与える恐ろしい存在であると同時に自分を無限に受け入れられる存在」と言うことになる。Mの人は鞭で打たれることに快感を得るとのことだが、これは実際聞くと普通に痛いらしい。ただしSの与えた試練に耐えたことによる達成感でドーパミンが大量に放出されて快感、になるんだそうだ。最近ケンドーコバヤシの「絶対に観ない方がいいテレビ」と言う番組で、実際にM男性が女王様に鞭で撃たれまくっててめちゃ痛がってたけど、最後にやり切った感出してて、マジ気持ち良さそうな顔だった。ああこれが関係性においての試練と忍耐なのだと感動した。
相手が自分の全てを受け入れてくれる存在ということになると、確かに普通に過ごしていたらそういう人とはまず出会わない。となると、Mは理想のSを作り上げようとしてしまうのだという。SMの構造からすると、SがMを好きなように扱っているように見えるんだけど実際は逆で、MのわがままにSが応えている感じになっている。SはサービスのSというのは実に的を射ている。Mからしたら自分の理想通りに動いてくれるSが望ましいんだけど、かと言って自分の思い通りだとこれはこれでつまらないらしくて、Mというのはなかなかにわがままな生き物だということだ。サピエンス前史という本では、小麦が人間を家畜化した、というお話があって、一見人間に育てられているように見える小麦は、人間に小麦需要を依存させることにより、人間を利用して繁殖しているというのだ。そう考えるとちょっと怖い。小麦に人間が操られているかも知れない、という意味では堀江貴文さんが手掛けているパン屋「小麦の奴隷」って名前も、ある意味では深みを感じる。
最後に、この本による日本のSMについての見解を紹介したい。日本のSMで欠かせないのが団鬼六さんで、団さんは西洋と日本のSMの形の違いについて語っている。西洋のSMは人間と馬の関係に近いらしくて、手足を革の拘束具で締め付けて自由を奪い、鞭で叩く。けど日本はわざわざ縄で亀甲縛りなんかしちゃう。単純に体の自由を奪うという意味では西洋の方式で十分なはず。けど日本は実に綺麗に縛り上げる。これは着物の帯から来ているらしい。そう言われるとそうかも知れない。日本のSMは痛みではなく羞恥、つまり恥らいにエロティックな部分があるのではないかということだそうだ。綺麗に縛られていることにより、恥ずかしさと同時にちょっと自分に酔ってしまうことにもなる。つまり西洋の鞭は罰で日本の縄は恥、ということで、それぞれの文化の精神構造がそのままSMの形に出ているということは非常に面白いと思う。西洋は罪の文化で日本は恥の文化というけど、そういうものが含まれていいるというのはSMの面白さだと思った。また機会があったら縛ってもらおうかしらん。



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