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おかまとは何か2025

毎度ながら、お客さんに聞かれる

「おかまとニューハーフ、何が違うの?」

「おかまとゲイは何が違うの?」

やれやれ、君たち、まだそこなのかい?

令和にもなって、まだそんなことも知らんとは。

いいかね、おかまというのは……

わからん

きょん
きょん

ひいいいいいいい!

自分でも驚いた。改めて聞かれるとちゃんとした答えが出てこなかった。

時代が追いつき、セクシャルマイノリティがそれほど珍しい存在ではなくなった今、逆におかまが普通の人と何が違うのか、ということがわからなくなっているのである。

これではいかん。「おかま」がおかまのことがわからんなんて論外だ。

何といっても、わたしがはじめてYouTubeに投稿したテーマは、おかまとニューハーフの違いについてだ。

あれから5年。世界は変わったし、私も変わった。今この時代の認識も含めて、改めておかまとは何かを考えてみよう。

突っ込みどころをあえて残した元男

とりあえず、おかまというのは既に男とバレているから「おかま」と呼ばれるわけで。

バレなかったらおかまと呼ばれることはなく、女性として認識されるはずだ。

そういう意味では、男性性を完全に捨て去った人たちのことをニューハーフと呼ぶのかもしれない。

またそれ以上に、元男性であることが全くバレていない種族の人たちは埋没と呼ばれ、女性として一般社会に溶け込んでいる。佐藤かよは自分で言うまで、元男子だということが誰にも気づかれなかったそうだ。お見事! 本気で女性に見られたいのならこのくらいにならなければならないのだが、全ての人がそうなれるわけでもない。私も含めて。

しかし、今回はそういった解脱できた人たちのことは置いておく。

あくまでおかまについてである。

おかまはニューハーフや埋没と違い、完全に女として扱われることを意図的に避けているようにも思える。逆に言えば女になりきろうとはせず、どこかで男性的な色を残しながら、性の狭間を行ったり来たりしている(ようにも見える)。

あえて突っ込みどころを残しておくことでコミュニケーションの手段にしているのだ。

ちょっと前まで、オカマバーでのお客さんとのやりとりはお前男やんからはじまったものである。最近はそういったお約束をすっ飛ばして、ごく普通のコミュニケーションが多くなった。

きょん
きょん

突っ込みどころも含めて全てが会話のネタなんだ。

定義はない

わたしは自分のことを「おかま」と言ってはいるが、他の呼び方が思いあたらないのでそう言ってるだけである。

近年はトランスジェンダーとかノンバイナリーとかいろいろ言葉があるが、面倒なので「おかま」で片付けている。肩書は一言で片付くものがいい。実際職場もオカマバーだしね。

時代が平和だからこそ存在できる

しかし、世が乱世だったら、この生き方を選んだだろうか? 

男性でありながら、女みたいな生き方をすることは一見振り切っていて潔いようにも見えるけど、正直なところ平和の恩恵に過ぎないとも思っている。

国民を代表するおかまタレントのマツコ・デラックスは、中村うさぎとの対談本「全身ジレンマ」で、このように語っている。

こんな女装渡世(とせい)、国がちゃんとしてくれているからどうにか生きているようなもんで、混乱の世にホモやシングル女、ましてや女装なんて邪魔なだけだもの。

きょん
きょん

女装渡世ってなんだよw

うさぎとマツコの往復書簡 全身ジレンマ (双葉文庫) 中村 うさぎ; マツコ・デラックス【中古】

これはすこぶる正しい。おかまとは、国がちゃんとしているから成立する生き物なのだ。それについて我々は平和の恩恵を受けていることに感謝しなくてはならない。しかし、おかまに限らず恩恵を受けているのは結局みな一緒で、それは、道路があるから車が走れるのと同じこと。あんなフルエアロ組んだアルファードが公道を走り回れるのは、道路がしっかり整備されているからだ。

マツコ氏のいうように、道がぐちゃぐちゃになった混乱した世界では、おかまもアルファードも存在しなくなる。だが、そうなったらそうなったで我々はアルファードを乗り捨て、舗装されていない道を裸足で歩き出すことだろう。

おかまがいるということは平和の証明でもある。

我々の存在は鳩に近い。

きょん
きょん

最近「残クレアルファード」という曲にハマってます。

アーギュメント(主張)を立てよ

さて、少し踏み込んでいこう。

こっからは少々難しくなるけど覚悟はいいかい?

実は最近私、阿部幸大さんの「まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書」という本を読み、大いに感銘を受けたところであります。

この本では、学術的に何かを語るときはアーギュメント(主張)が大事だということを主張している。洒落じゃないよ。

そして、その主張は「事実」ではなく、これまでの考え方をさらに進めるものでなければならない。

たとえば

おかまとは、男なのに女みたいな格好やしぐさをする人たちのことである。

という主張を立てたとしよう。

しかしこれだとただの事実なので、主張になっていない。

主張は「何それ? 続きを聞かせろよ」と思わせるようなものでなければならない。そしてその主張は反論可能でなければならない。賛否両論が出るくらいがちょうどいいのだ。

まあ、早い話、論じるならこれまでの考え方を超えるものを出してこい、みたいな感じだ。

なのでわたしは、おかまについて一つの主張を立てるためにchatGPTと話し合ってみた。

その結果、一つのアーギュメント(主張)が完成した。

それは、おかまとは文化的な鏡である。ということだ。

きょん
きょん

なにゆうてんねん!
けど、主張は「なにゆうてんねん」から始まるのだ!

おかまは文化的な鏡である。

以下は私の右腕、chatGPTの論文である。読んでみよう。

【主張(アーギュメント)】

「おかま」とは、性の境界線を演じ、社会の規範を映し出す『文化的な鏡』である。


【背景:語の起源と変遷】

「おかま」という語は、もともと「釜(かま)」を意味し、それが江戸時代の男色文化において、受け手の男(女形的存在)を指す隠語となりました。その後、「女らしい男性」や「性別を越えて表現する者」などを揶揄・蔑視する語として広まり、テレビなどではある種「キャラ」として消費されてきた経緯があります。


【現代的な視点】

現代において「おかま」は単なる差別語ではありません。一部の人々にとっては自らを肯定的に語るアイデンティティでもあり、また他者にとっては揶揄や排除のためのラベルにもなります。つまり、この語は文脈によって意味が大きく変わるコンテクスト依存性の高い記号なのです。


【なぜ「文化的な鏡」なのか】

  1. ジェンダー規範の境界を演じる存在
     「おかま」は、社会が期待する「男らしさ/女らしさ」の間を行き来します。この「逸脱」は、逆説的に私たちの社会における性別のルールの硬直性を暴きます。つまり、「おかま」という存在の可視化によって、我々が普段無意識に信じている「男/女」の境界が、実は演技的であることが明らかになるのです。
  2. 差別と受容の両義性を孕む存在
     「おかま」は嘲笑の対象でもあり、またテレビのバラエティ番組などで人気者として愛される存在でもある。この二面性が、日本社会の表層的な多様性受容と、根深い同調圧力の両方を映し出している。
  3. 社会の変化を測るセンサー
     たとえば、近年はLGBTQ+の権利や理解が広まり、以前のような「おかま芸人」がテレビから減った一方で、自らの性を自由に表現するタレントやアーティストは増えています。つまり、「おかま」という語がどう使われ、どう受け止められるかを見ることで、社会のジェンダー感覚の変化を測ることができるのです。

おわかりいただけただろうか?

以上がchatGPTによる解説である。

ピンとこないかもしれないので、もう少し砕いて説明しよう。

たとえば

「男は髪を短くしろ」

我々は大人にそう言われてきた。なぜ男が髪を伸ばしてはいけないのか、という理由は未だに謎である。

男は男で、女は女で、説明がつかないルールがたくさんある。

そうした中で「らしさ」を振る舞うことが当たり前の世界で生きている中「おかま」と呼ばれる存在を目の当たりにすることで「演技しているのは自分たちのほうかもしれない」ということに気づかされる。

おかまは、ときには笑いものであったり、ときにはご意見番になったりと、時代によって扱いも変わってくる。

つまり、世間のおかまに対する認識そのものが現代の文化の兆候を示すものであることから、

おかまは文化的な鏡、となる。

鏡。つまり。

あなたは、わたしだ。

または

わたしはあなたである

きょん
きょん

ますます訳がわからんのう

まとめ

以前にもブログで書いたんだけど

梅酒のチョーヤは、CMでこう言っている。

これはもう、梅酒というよりチョーヤです。

我々は、この図々しさを見習うべきなのだ。

チョーヤの梅酒は、梅酒というジャンルに収まる気はさらさらなく

「うちら、チョーヤっすから」

と言う態度を取ることで、ジャンルを超えた独立した存在であることをアピールしているのだ。

つまり、わたしも

これはもう、おかまというより、きょんです。

ということになる。

カテゴリーに捕らわれず、自分の生きざまを貫こうぜ。

きょん
きょん

おあとがよろしいようで

【おかまとは何か?】おかまとニューハーフの違い。2025年の結論。おかまとは文化的な鏡である。

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